たとえばこの剣で、人を救い出すとする。それでも、その剣は相手の血で汚れてしまう。
一体何が正義で、一体何が正しいのか。そんな矛盾を誰もが抱えながらあの時代を生きていった気がする。




父の遺した神谷活心流




「神谷活心流―――師範代、神谷薫。以上―――。ふうん、君が師範代なのか。
 考えなしのイノシシが何故師範代なのかと思いきや、門下生はナシ、ね――。」

「これも、「人斬り抜刀斎」のせいってわけかな?」と微かな嘲笑と共に言葉を続ける。
女子――神谷薫――は、キッと眉を吊り上げて、今にも襲い掛かりそうな形相でを睨む。
今、住み込み奉行の手当てを受けていなかったらは胸倉を掴まれていただろう。

「あんたは…!もうっ、そもそも小さい流儀なんだけどね。それでも私たち門下十四人
 力をあわせて頑張っていたんだけどね。人斬り抜刀斎の名を恐れて一人、また一人辞めていったわ。」

ふう、とため息交じりに語る薫に、は一瞥をくれる。
――人斬り抜刀斎の名を恐れて…ね。

「人斬り抜刀斎は、明治になった今でも人々に畏怖されているのよ。」

幕末に、修羅さながらに人を斬った、最強の名を誇る「人斬り抜刀斎」。
名だけで畏怖されるとは――――と、は少し自嘲気味に笑った。

「なるほど――だが、もう夜回りはよせ。あの男は君より遥かに強い。自分の力量を認めるのも
 大事だ。わかったね?次会ったときは、死んでしまうかもしれない。」

なんともいいたげな表情で聞いている薫に、更に追い討ちをかけるように淡々と続ける。

「流儀の威信なんて、命を懸けて守るほど重いものじゃない。」
「神谷活心流は…」

の言葉に、それまで一の字に結んでいた口を解いて語りだす。

「幕末の動乱を生き抜いてきた私の父が明治になって開いた流儀。
 父は殺人剣をよしとせず、「人を活かす剣」を志にこの十年一途に頑張ってきたわ。」

「人を活かす剣」―――はじめて聞いた。だから、活心流―――。
は薫の言葉を心の中で何度も呟く。「人を活かす剣」…。

「なのに…!人斬り抜刀斎と名乗る男は、神谷活心流を騙って、既に十名以上の
 死傷者を出している…!」

薫の顔を見れば、本当に辛そうな顔。いつの間にか目尻には涙が溢れ、気丈そうな
彼女の涙に、は思わず目を見開いた。

「父の遺した流儀が!活人剣を理想とする神谷活心流が、殺人剣に汚されて…!
 ――――たかが流浪人風情にこの悔しさは判らないわよ!」

―――「人を活かす剣」に「人を殺す剣」ね…。
確かに、僕にはわからない。―――
薫の立場になって想像したとしても、それは想像であり、想像でしかない。

はゆっくりと扉の方へと歩む。

「まあ。どの道その腕じゃ夜回りも無理だ。第一、活人剣を志すものが自分の命を活かせないようじゃ
 誰も笑えない洒落になるよ。亡き父も、君の命を代償にしてまで流儀を守ることは望まないさ。」

それじゃあ、失礼するよ。と最後に一言添えて、は道場を去る。
目の前で困っている人も救えない自分に多少の苛立ちを覚えながらも、歩む足を止めなかった。

「女の涙は苦手だ―――」

どうすれば泣き止んでくれるか、その術を知らないからかもしれない。